「私、大学に受かったんですよ」
レジに紙パック飲料を持ってきた女子高生は、そう僕に誇らしげに言った。
彼女は何ヶ月か前から僕のバイト先であるコンビニでいつも同じ商品を買っていくようになったお得意様で、こうしてよく世間話をする。
「それは……良かったじゃないか。おめでとう」
「来年は私と同じ大学受けたらどうですか?後輩になれるかも」
「勘弁してくれよ」
軽口を叩かれて苦笑いする。彼女の受かったという大学は僕の頭では逆立ちしたって行けそうにない。
「で、約束覚えてるかなーと思って今日は報告に来たんですけど」
「……忘れてはいないけど」
まさか、本当に受かるとは思ってなくて。呆れたように溜め息をつくと、彼女は私の行動力を舐めたら駄目ですよ、と頬を膨らませた。
バイトが終わるまであと少しだったから彼女に待っていてもらって、僕は渋々彼女を自宅のアパートへ連れていった。錆の浮いた階段を上って、我が家の玄関を開ける。おじゃまします、と邪魔になるとは全然思っていないような風に彼女は我が物顔で僕の家に侵入した。
「前の住人は、タダだったけど。今度は食費くらいは入れて欲しいな」
「荷物とかも全部前のままなんですか?」
「なんだか、捨てられなくて」
僕が彼女とした約束とは、つまり大学生となる彼女の下宿先にこの部屋を進呈するという事だ。頼むから本棚だけは綺麗にしておいて欲しいけれど。
「それにしてもさ。敬語、似合わないよ」
「うん、自分でも思ってた」
でも頭良さそうに見えない?と悪戯っぽく笑う彼女に、そんなものなのかなと首を傾げる。彼女は彼女だ。本質的なものはあまり変わらない。
「じゃあ、またよろしくね?――春くん」
□ □ □
「あの、琴宮春さんですよね」
レジに紙パックの牛乳をことんと置いた少女を、僕ははっとしながら見上げた。
もう二度と見ることのないと思っていた顔がそこにある。懐かしくて、嬉しくて、涙が出そうになった。それでも小さな違和感を感じるのは、彼女が僕に向ける視線や表情が、前とはどこか違うものに見えるからだ。
「アキ――」
「サキです。冬木沙希」
「……そう、だね。はじめまして、沙希さん」
訂正されて肩を落とす。そうだ、彼女はもうアキじゃない。冬木沙希という別の人間だ。アキに会う事はもう無いのだろう。
「調子の方はどう?良くなってるなら、嬉しいよ」
「記憶は順調ですけど。受験ってなんであんなに面倒なんでしょうね」
頭がパンクしそうですよ、と彼女は疲れたような溜め息を吐いた。今日も塾の帰りで、これから家に帰るとまた勉強漬けという毎日を送っているらしい。
僕と彼女以外に誰もいない店内は静かだった。このコンビニは、客が来ない時は本当に誰も来ない。人を寄せ付けないオーラでも放っているなら嫌だな、と思うけれど。
彼女は少し躊躇うように口をつぐんだ。何か言いたい事があるからこそ、今日ここに来たんだろうから。僕から彼女の元に足を運んだ事は一度も無かった。
「春さんに、伝言があって」
「……ん」
小さく頷く。それを断る理由は無かった。
冬木沙希も、僕の頷きに合わせるように小さく微笑む。
「アキは、あなたの事が好きでした」
「………」
これは、もう会える事のない彼女からの、アキからの伝言。
「あなたがいたから、どんなに不安でも耐えれたんだと思います。あなたの優しさと暖かさが、どれだけ彼女を救った事か分かりません」
「……僕も、彼女との生活はとても安らかで、幸せなものだった」
そう伝えて欲しいと付け加える。目の前にいるのは、彼女でなく沙希だから。
「でも、私はもうアキじゃないから」
「それで……良かったんだと思う」
震える声で呟いた。いつまでも、御伽話の住人ではいられない事は分かっていたから。0時を過ぎて魔法が解けなければ、お話しにならないから。
冬木沙希も、僕とまったく同じような表情をしていた。寂しそうに微笑んでいた。
「アキになれて、良かった」
もう会えない彼女へ、僕と沙希の柔らかな想いは届くだろうか。
頬を冷たいものが伝った。僕は随分、涙もろくなってしまったらしい。見ると沙希もぽろぽろと涙を流していた。綺麗だな、と思った。
「……でも、このまま終わりにしたくないんです」
「……え?」
袖で涙を拭って、彼女は僕の目を見つめた。
「私も、アキの好きだった春さんに興味があるから。アキが、どんな風に春さんの事を思っていたか、知りたいから」
だから、これが最後じゃなくて、始まりにしたいんです。そう彼女は笑う。
「君もやっぱり、アキに似てるよ――」
前向きで、真っ直ぐで、全力疾走した後みたいな。
泣きながら僕も笑顔を作る。変な顔だとお互いに笑った。
□ □ □
さよなら、僕の好きな人。もう君には会えないけれど、君と過ごした安らかな時間は、今こうしてまた新しい場所で流れ始めたから。
――それじゃ、またよろしく。