人間の脳味噌っていうのは、自分勝手だ。
 私が家に帰って1週間になるけれど、もう生活に支障はないほどに私の症状はあっけなく回復していた。もっと早く帰ってきていればこんな苦労もしなくて良かったのにな、と目の前に溜まった課題の山をうんざりと眺める。受験を控えた高3のこの時期に家を空けていたのは、正直かなりイタかった。
――あの日、私がこの家に帰ってきた時の事を思い出す。
 今考えれば信じられない事だけど、もう何年も暮らしているはずの自分の家の事を私は知らない場所だと思って恐れていた。家どころか、兄の誠一の事すら覚えていなかったのだから笑えてしまう。あんな嫌な奴の事を忘れられるなんでおめでたい事だ。
 でも、私が琴宮春と一緒に暮らしていた間――何日だったか何週間だったか、それとも何ヶ月かはあまり実感が無かったから分からないけれど――の記憶なんていうのは、私が生きてきた一生の内じゃ本当に短いもので。何とか自分の部屋を探し出した後、見慣れたベッドやぬいぐるみなんかを眺めてみると、実にあっけなくそれにまつわる思い出が頭の中に思い浮かんでくるのだ。
 一度コツを掴んでしまえばこっちのものだ。部屋を、家を、ずっと休んでいたらしい学校も、目にする度に無くなっていたパズルのピースをぱちりとはめ込む事が出来る。あっという間に『冬木沙希』の復活というわけだ。
 琴宮春の事を考えた。あの雨の日に私を拾った男の事だ。
 私は、家族とあまり良い関係を築いていない。冬木家はそこそこお金を持った家だけれど、そこでの私の地位は笑えるほど低い。
 兄の誠一は父と母の息子だけれど、私は父としか血が繋がっていない。つまりは父の妾の子供だ。この家には、小学生の時にお母さんが死んでしまったせいで仕方なく引き取られた。
 私を身ごもった時、お母さんは父にその事を伝えなかったらしい。ひっそりと父の元を離れて、一人で私を産んで、一人で育てた。
 父親なんていないものだと思っていたし、別に必要もないかな、なんて思っていたものだから、お母さんに死ぬ間際になって「どこどこの誰さんがあなたの父親だからそこを頼ってね」だなんて急に言われても逆に困った。
 いきなり現れた妾の子を果たして引き取ってくれるのか、と子供ながらに心配してみたけれど、意外とあっさり私は冬木家で暮らす事になった。可哀相な境遇の親戚の子供を引き取った。そういう事になっているらしい。
 呆れたというか何というか、父はお母さんの従兄だったのだ。
 この家は世間体ってものを酷く大事にするから、基本的に望まれていない子供だった私への風当たりは厳しい。
 それでも少しは気に入って貰えるように、私なりの努力はしてきたと思う。
 ひたすらに勉強を頑張って、中学校の試験ではトップ10以内には入れるようになった。結果は、誠一はいつも1位なのにと、出来損ない扱いだった。
 それならともっと勉強して、なかなかのランクの高校に入学した。結果は、誠一の通った高校の方がランクが上だったので、出来損ない扱いだった。
 勉強では誠一に敵わないかもしれない。何か打ち込めるようなものを探そうと思い部活を色々と試してみる事にした。結果は、お前は遊んでばかりだなと、出来損ない扱いだった。
 なんだ、これは。
 どんなに頑張ってみても、どんなに努力しても、私は冬木家の一員として認められる事がない。無駄な足掻きだ。
 それでもまだ諦めきれなかった私は、少しは気にかけて貰えるだろうかと髪を金髪に染めてみたりもした。結果はどうだろう。心配も何も、蔑んだような目で見られるのがオチだった。
 何だか、私の人生全てが馬鹿馬鹿しくなった。
 何度目になるかも分からない誠一との喧嘩の後、私は財布だけをひっつかんで家を飛び出した。行き先は決まっていた。昔、お母さんと二人で暮らしていたボロアパートだ。
 電車を降りてすぐ雨が降り出したけれどどうでもよかった。あのアパートはまだ取り壊されずにいるだろうかと、それだけが心配で懸命に走った。
――まだ、残っていた。お母さんとの思い出が詰まった、暖かい我が家がそこにあった。
 でも、そこにもう帰る事は出来なくて。
 今の私の家は、あの居心地の悪い冬木家で。
 ざぁざぁと降りしきる雨の中で、幼い頃の貧しかったけれど幸せな記憶を思い出す度に、今のみじめな自分を思い知らされる。心がずたずたに裂かれてしまう。
 泣きながら地面に崩れ落ちながら、何もかもが嫌になって嫌になって。
 消えてしまいたくなって。
 そして、本当にそこで『冬木沙希』はいなくなってしまったのだ。
「……なんか、あっけなかったなぁ」
 消えてしまうのも、復活するのも、あっけない。
 あそこで琴宮春に拾われなかったら、どうなっていたんだろうか。すぐ警察に届けられて、また冬木家の心地悪さに喘いでいたんだろうか。
 『アキ』である生活は楽しかった。周りの景色全てが輝いて見えた。のんびりと日向ぼっこでもしているような暖かさに包まれていた。
 琴宮春は、不思議な人間だったように思う。
 自分の世界を守っていける人だった。あの部屋の心地よさは、彼がいなければ成り立たなかった。強制するでもなく、ただそっと優しく差し伸ばされた彼の手に安らぎを覚えた。
 私は、琴宮春の事が好きだったのだと思う。
 それでも、私はもう『アキ』ではないから。『冬木沙希』に戻ってしまったから。アキとサキは、違う人間だから。
 今の生活が落ち着いたら、また彼に会う事もあるかもしれないけれど。
――さよなら、私の好きだった人。