――まだ、残っていた。お母さんとの思い出が詰まった、暖かい我が家がそこにあった。
 でも、そこにもう帰る事は出来なくて。
 今の私の家は、あの居心地の悪い冬木家で。
 ざぁざぁと降りしきる雨の中で、幼い頃の貧しかったけれど幸せな記憶を思い出す度に、今のみじめな自分を思い知らされる。心がずたずたに裂かれてしまう。
 泣きながら地面に崩れ落ちながら、何もかもが嫌になって嫌になって。
 消えてしまいたくなって。
 そして、本当にそこで『冬木沙希』はいなくなってしまったのだ。
「……なんか、あっけなかったなぁ」
 消えてしまうのも、復活するのも、あっけない。
 あそこで琴宮春に拾われなかったら、どうなっていたんだろうか。すぐ警察に届けられて、また冬木家の心地悪さに喘いでいたんだろうか。
 『アキ』である生活は楽しかった。周りの景色全てが輝いて見えた。のんびりと日向ぼっこでもしているような暖かさに包まれていた。
 琴宮春は、不思議な人間だったように思う。
 自分の世界を守っていける人だった。あの部屋の心地よさは、彼がいなければ成り立たなかった。強制するでもなく、ただそっと優しく差し伸ばされた彼の手に安らぎを覚えた。
 私は、琴宮春の事が好きだったのだと思う。
 それでも、私はもう『アキ』ではないから。『冬木沙希』に戻ってしまったから。アキとサキは、違う人間だから。
 今の生活が落ち着いたら、また彼に会う事もあるかもしれないけれど。
――さよなら、私の好きだった人。