家の中が、空っぽになった。
 冬木サキの家から帰宅した僕は、アパートの玄関を開けてぼんやりと部屋の中を見渡した。気に入っている家具もごちゃごちゃしている机の上も、何一つ物は移動していないのに、言いようのない空虚さを漠然と感じる。
 元に戻っただけのはずなのに。
 妹や友人が遊びに来た時の事を思い出す。彼女達が帰った後にこんな風に思う事は今まで一度も無かった。騒々しかった空間が僕一人になった途端、ふっと静まりかえったようになっても、むしろそれに安らぎを覚えてしまう。僕は一人でいる事を望んで今の生活を始めたのだし、独りでいる事に苦痛を感じる事は無かった。
 でも、何故今はこうも心臓を掻きむしりたくなるほど不安なのだろう。
 部屋のどこを見ても、もう彼女はいない。ぴしゃん、そんな間抜けな音と一緒にいなくなってしまった。
 土で汚れた封筒をテーブルの上に置いて、椅子を引いてそこに座る。ここで何度も彼女と食事をした。嫌いなトマトも無理矢理に食べた。お世辞にも美味しそうとは言えない見た目の料理だったけれど、味は意外な程に美味しかったんだ。
 座ったまま、ベッドの脇に置いてある目覚まし時計に目をやる。ここしばらく音をかき鳴らしていなかったあれは、きっとまた明日から毎朝僕の脳味噌を不愉快に揺さ振り起こすんだろう。ベッドの下にだって、もういくらでも物を隠せる。別に隠さなくても、その辺に投げておいてもいい。
 隣りに敷いてある布団も、早い所押し入れに仕舞うことにしよう。寝る人間のいない布団なんて場所を取るだけで何の役にも立たない。
 床に乱雑に積み重ねてある漫画も小説もきちんと本棚に片づけ直そう。彼女は僕が何度注意しても出しっぱなしにしていたから困ってたんだ。
 ほら、こんな風に頭を抱えて座っている場合じゃないじゃないか。
 やる事がたくさんある。元通りの部屋になるように片づけて、掃除をして。
「……元通りってなんだよ」
 喉から絞り出すように呟きながら、ふと視界が滲んでいるのに気付いた。目からぽろぽろと涙が零れてきて、テーブルの上に水滴が落ちる。
 元通りなんかじゃない。それだとまるで、彼女との生活を綺麗さっぱり忘れて、無かった事にするみたいじゃないか。
「なんで、僕は彼女を帰したんだよ……」
 その選択が正しかった事は分かってる。彼女には彼女の居場所があるのだ。僕が横から軽々しく手を出して良いものじゃない。あの男だって、あまり良さそうな人間には見えなかったけれど彼女の家族である事に間違いはないのだから。帰るべき家があるならそこにきちんと帰すのは当たり前だった。
 それでも、部屋のどこを見ても彼女の事を思いだしてしまうのが辛かった。いるはずのない人間をつい目で探してしまうのが辛かった。
 僕は、彼女にずっと傍にいて欲しかったんだと思う。
 愛しているだとか、そういう感情かどうかはよく分からない。でも、心の深い部分で僕が彼女に安らぎを覚えていたのは確かだった。
 家の中が、空っぽになって。
 自分以外に誰もいない独りの部屋で、僕は寂しさで心臓に穴が開いたようになりながら、どうか彼女の記憶が早く元通りになりますように、とそれだけ願う。
 彼女がアキではなく冬木サキに戻れた姿を、僕が見ることは無いんだろう。
――さよなら、僕の好きな人。