「ここが、君の家だそうだ」
 一瞬、彼が言った言葉の内容を理解できなかった。
 こんがらがってわけがわからなくなっていた頭の中がさらにぐちゃぐちゃになる。何て返せばいいのかも分からなかった。ただ、ぽかんと間抜けな顔しか出来ない。
 ぱくぱくと口を動かすだけの私を無視して、春くんはまた黙り込んだ。こちらから目をそらすようにしながらすっと腕を伸ばしたかと思うと、独特の間延びした電子音が静かに響く。玄関のチャイムを彼が押したのだ。私の家だという、その家のチャイムを。
 玄関の表札に書いてある文字を読む。冬木。フユキと読むのだと思う。どちらにしろ、私はこんな名字知らない。大体、珍しく春くんが私より早く起きていたかと思えば、いきなり朝から出かける事になってしまって、私が何を言っても全然喋ってくれなかった癖に急にこんな家の前で立ち止まって、ここが私の家だなんて言い出すなんて悪い冗談にも程がある。
「ねぇ春く――」
「なんだよ、またアンタか」
 早く帰ろうよ、そう言おうとして春くんの袖を引っ張ろうとした時、がらりと玄関の扉が開いた音と不機嫌そうな男の声が聞こえてびくりとする。何だか、嫌な感じの声だ。人を上から見下ろすのに慣れたような、威圧的な響きがする。
「朝から迷惑なんだよね。一体何の用で……」
 無意識的に春くんの後ろに隠れるようにしていたけれど、面倒臭そうに腕組みをする男とはたと目があった。男が、何か変な動物でも見たようにぱちくりと瞬きをする。
「ああ?……サキか?お前」
「え……あの……」
 今、この人は私を何て名前で呼んだんだろう。私の名前は――春くんに貰った名前は、アキで。でも、この人は、アキじゃなくて、サキと呼んでいた。よく似た発音だけれど、確かにアキじゃなくて、『サキ』っていう知らない名前で呼んだんだ。
「そうだと、思います。彼女は、冬木サキさんと言うのですね」
「……春くん?」
 春くんまで何を言い出すんだろう。なんで人違いですよって言ってくれないんだろう。冬木サキなんて私は知らない。知らないのに。
「髪が黒くなってるから分からなかった。お前、人に迷惑かけるのがそんなに面白いのかよ?今までどこ行ってたわけ?」
 非難するような口調で問いつめられて身体が強張る。怯える子供みたいにぎゅっと春くんの背中に隠れたまま彼の服を握った。知らない人間にこんな表情を向けられるのが酷く怖い。私は、この人に何もしていないはずなのに。
「おいサキ――」
「僕が」
 私の態度に苛々したように男の人が腕をこちらに伸ばしてきたのを、春くんが寸前で止めた。眉根を寄せる彼に淡々とした声で続ける。
「僕が、彼女をずっと家に泊めていました。信じて貰えるか分かりませんが、彼女はいわゆる、記憶喪失の状態なのですよ」
 そして、雨の日に私がアパートの前に倒れていた事、自分の事について何も覚えていなかった事、自然と回復するまで家に住まわせる事にした事など簡単な経緯を男に説明した。
 まるであらかじめ用意してきた文章を朗読しているような、いつもの暖かみが感じられない声に、私は無性に悲しくなる。
「……記憶喪失ねぇ」
 男は信じていないようだった。馬鹿にするように舌を鳴らして、それから口汚く春くんの事を罵り始める。どうせ変な事を企んでいたんだろう、動物の子じゃあるまいし常識ある人間なら警察に届けを出すべきではなかったのか、概ねそんな意味の言葉だった。
「すいません」
 春くんはただ悲しそうにそれだけを答える。
 私には二人を眺める事しか出来なかった。彼らは確かに私の事で会話をしているのだけれど、それは私には関係のないもののように思えるのだ。彼らの言う冬木サキとは私だ。でも、私は。冬木サキについて何も知らないのに。
「ほら、これやるからもう家に近付かないでくれる?」
 男が何かを春くんの胸元にぐいっと押し付ける。茶封筒のようだった。
「……いりません」
「早く帰れって言ってんだよ」
 封筒を返そうとする春くんの肩を男が小突く。がくんと春くんが尻餅をついた。同時に、手から落ちた封筒の中身も滑り出す。そこそこの枚数のある壱万円札だった。
「お前はもう家に入ってろよ――この恥さらし」
「あ……っ」
 腕を乱暴に引かれて私は家の、冬木サキの家の中に押し込まれる。豪奢な造りだというのは分かったけれど、ひんやりとした空気にぞくりとする。
 でも今はそんな事よりも春くんの方が気になった。慌てて振り向こうとして、そして。
 ぴしゃん。
 引き戸が荒々しく閉められる光景しか私には見えなかった。
 サッシと扉のぶつかり合うその音は、私が春くんと、そして『アキ』と離別させられる音だった。扉の内側に入ってしまった私は、『冬木サキ』になってしまった。
 膝から力が抜けた。へたりとその場に座り込む。
 私は、独りになってしまった。