「おいサキ――」
「僕が」
私の態度に苛々したように男の人が腕をこちらに伸ばしてきたのを、春くんが寸前で止めた。眉根を寄せる彼に淡々とした声で続ける。
「僕が、彼女をずっと家に泊めていました。信じて貰えるか分かりませんが、彼女はいわゆる、記憶喪失の状態なのですよ」
そして、雨の日に私がアパートの前に倒れていた事、自分の事について何も覚えていなかった事、自然と回復するまで家に住まわせる事にした事など簡単な経緯を男に説明した。
まるであらかじめ用意してきた文章を朗読しているような、いつもの暖かみが感じられない声に、私は無性に悲しくなる。
「……記憶喪失ねぇ」
男は信じていないようだった。馬鹿にするように舌を鳴らして、それから口汚く春くんの事を罵り始める。どうせ変な事を企んでいたんだろう、動物の子じゃあるまいし常識ある人間なら警察に届けを出すべきではなかったのか、概ねそんな意味の言葉だった。
「すいません」
春くんはただ悲しそうにそれだけを答える。
私には二人を眺める事しか出来なかった。彼らは確かに私の事で会話をしているのだけれど、それは私には関係のないもののように思えるのだ。彼らの言う冬木サキとは私だ。でも、私は。冬木サキについて何も知らないのに。
「ほら、これやるからもう家に近付かないでくれる?」
男が何かを春くんの胸元にぐいっと押し付ける。茶封筒のようだった。
「……いりません」
「早く帰れって言ってんだよ」
封筒を返そうとする春くんの肩を男が小突く。がくんと春くんが尻餅をついた。同時に、手から落ちた封筒の中身も滑り出す。そこそこの枚数のある壱万円札だった。
「お前はもう家に入ってろよ――この恥さらし」
「あ……っ」
腕を乱暴に引かれて私は家の、冬木サキの家の中に押し込まれる。豪奢な造りだというのは分かったけれど、ひんやりとした空気にぞくりとする。
でも今はそんな事よりも春くんの方が気になった。慌てて振り向こうとして、そして。
ぴしゃん。
引き戸が荒々しく閉められる光景しか私には見えなかった。
サッシと扉のぶつかり合うその音は、私が春くんと、そして『アキ』と離別させられる音だった。扉の内側に入ってしまった私は、『冬木サキ』になってしまった。
膝から力が抜けた。へたりとその場に座り込む。
私は、独りになってしまった。