口の中がカラカラに乾いていた。
昨日一人で通った道を、今日はアキを連れて二人で歩く。目的の町は僕の住んでいる町から電車で30分ほどの距離にあった。行き先を告げないまま黙々と歩く僕の後ろを、アキはわけが分からないといった様子でついて歩くけれど、僕はもう何を言えばいいのか分からなかったし、気の利いたジョークを言う余裕もなかった。ただ、ただ、歩く。
駅を出てから大きな通りをいくつか曲がって、やっと僕は立ち止まる。白い塀に囲まれた大きな和風の一軒家だ。表札を確かめる。ここで間違いなかった。
「ねぇ、ここどこ?大体、春くん昨日からなんか変だよ?」
後ろで首を傾げるアキになんて言えばいいのかはもう決めてあった。
何度も何度も、頭の中で繰り返した。
僕は努めて冷静な声を出せるように深く静かに息を吸った。家を出て、初めてアキに声を発する。
「――ここが、君の家だそうだ」
□ □ □
主婦というのは何故こうも噂話が好きな生き物なんだろう。
コンビニで僕と一緒に店員をしているおばさんは、時々僕にとってはどうでも良い事をぺらぺらと話し掛けてくる。僕がそれをちゃんと聞いて的確な返事を返してくるのを期待しているわけじゃなくて、ただ単に人に聞かせたいだけのようだ。平日の昼前なんてそれほど忙しい時間帯でもないし、仕方なく僕は一人で喋り続けるおばさんに適当に相槌を打つ事にする。
「それでね、最近プチ家出って流行ってるらしいじゃない?」
最近というわけでもないんだけどなと思ったけれど、良い気分で話をしている所に水を差しても悪いので、そうらしいですね、とだけ返す。
「うちの息子のクラスメイトにもいるらしいのよ。学校を何日も無断欠席してると思ってたら、どうも家出してるみたいなの」
ああ、あのきちんと大学へ進学してくれる予定の息子の事か。
それにしても、クラスメイトの親どころか見ず知らずの他人にまで広まっていくだなんて、噂っていうのは恐ろしいものだ。
「でも噂じゃその子、家出って恰好じゃなかったらしいのよね。雨が降ってたのに、傘どころか荷物も何も持たずにふらっと歩いてた所を見た人がいるらしいの」
へぇ。まるで失踪みたいですね――特に深く考えずに言ってみたが、ふと何か喉にひっかかるようなものを感じる。
この町の近所。つい最近、雨の日に、荷物も無しに家を出て行った。
いや、こういう話はきっとどこにでもあるものだろう。ストレスとかそういうのが原因であてもなく家を飛び出すなんてよくある話だ。
ひっかかったものを何とか飲み込もうとする僕を気にせず、おばさんは本当にそう思っているのかと疑うような呑気な顔で続ける。
「結構目立つ子だから心配よね。前に息子の学校へ行った時に見かけたんだけれど、ヤンキーっていうのかしら?コギャル?髪の毛なんて金髪なのよ」
「――…っ」
息が止まってしまうかと思った。心臓がどくどくと早鐘を打つ。同じような背格好をしていた少女を僕は知っている。彼女は、最近誰よりも僕のそばに居てくれている。
頭の中に重い鉄球を投げ込まれたみたいだった。じりじりと指先が麻痺して呼吸の仕方が分からなくなる。僕は馬鹿だ。もっと早くやるべきだった事を怠って、忘れたふりをしていた。犬や猫の子じゃあるまいし、彼女を、アキをきちんと元の居場所へ帰してあげられる努力をするべきだった。
こんな身近に、ヒントが転がっているなんて思ってもみなかった。
「あ……」
上手く言葉が話せるかどうかもよく分からなくなった。霞みがかかったような頭でさっきの話を詳しく聞かせてくれないかと頼む。いつの間にか他の話題に移っていたおばさんは怪訝そうな顔で僕を見た。
「詳しくって言われても、他は彼女の家くらいしか知らないもの。大きくて有名なお家なのよ」
それだけ聞ければ十分だった。あと1時間ほどで僕の勤務時間は終わるし、あとは自分でその家に赴いて尋ねてみればいい。誰か一人くらい在宅しているだろう。
僕は願っていた。その家とアキが何の関係もなければいいだなんて思っていた。
訝しんでくるおばさんに、そういえば僕もそういう恰好の子を見たことがあるんですとだけ言うと、案外あっさりと家までの簡単な道筋とそこの名字を教えてくれた。個人情報というのは主婦のネットワークからたやすく漏れてしまうものらしい。
1時間というのをこんなに長く感じたのは初めてだった。誰かが悪戯に時計の速度を緩めているんじゃないかとすら思ってしまう。おつかれも言わずに店を飛びだした僕におばさんが何やらぶつぶつ文句を言っていたけれどどうでもよかった。
30分ほど電車に揺られてから教えられた駅で降りる。道に迷わないか心配だったけれど、思ったより簡単にその家は見つかった。なるほど、大きい。
インターホンを押そうとした手がじっとりと汗をかいてしまっているのに気付いた。早く押してしまおう、そして『この家』を出て行った少女と僕に何の関係もない事をさっさと確かめて、家に帰ってアキとのんびりと昼食を食べればいい。
躊躇っていた指を無理矢理に押し出して、無機質なありふりれた電子音が鼓膜に響いた。早く誰か出てくれ、いや、やっぱり出るな、いや、でも――
『……はい?』
機械越しに男の声が出てくる。不機嫌そうな声だった。
今引き返せば、悪戯という事で済むんじゃないだろうか。一瞬そう思った自分を恥じながら、この家の娘がいなくなったと知人に聞いた事、それと同じような人物をたまたま見かけた事を簡潔に話した。見かけたというわけではないけれど、人違いだった場合にややこしくなるので深く話をするつもりはなかった。
できれば確認をしたいので、写真があれば見せて頂けませんか。そう言う僕を男は機械の奥で怪しんでいるように沈黙したが、
『ちょっと待ってろ』
ぷつんと通信が途切れて、代わりに家の中から足音が聞こえてきた。僕は背筋を伸ばして出来るだけ落ち着きを保てるように自分に言い聞かせる。
玄関のきわめて日本的な引き戸から出てきた男は、僕より2つか3つ年上のように見えた。銀縁眼鏡の奥にある瞳が品定めでもするかのように僕を見る。少女の家族か何かだろうか。
「ほら、こいつだよ。迷惑ばっかかけやがって」
男が悪態をつきながらこちらに一枚の写真を手渡してくる。あまり心配している風には見えなかった。
吸い込まれるように僕はその写真を見て、
「……明日、また来るかもしれません」
「は?ちょっとアンタ――」
掠れた声でそれだけ言ってその場を後にする。後ろから男が呼び止めようとするが、頭の中がまっしろになって、これ以上何も考えたくなかった。
写真を返すのも忘れていた。今よりもう少し幼いアキが、あの家の玄関の前に立って、不機嫌そうに家族と写っている写真だった。
家までどうやって帰ってきたのかも、よく覚えていなかった。
ただひたすらに頭が痛くて、心臓が押しつぶされそうで、何も考えられなかった。
よくもまあ事故に遭わなかったものだなと思う。いっその事消えてしまった方が楽なのかなとも思ったけれど。
「あ、春くんおかえり。遅かったじゃん、お腹空いたー」
「……ただいま」
頬を膨らませて出迎えるアキに呻くように返事をする。やっぱり、さっき写真で見た顔と、同じだ――
僕はどうしたらいいんだろう。僕には僕の家族と思い出があって、それは良い思い出も嫌な思い出も、どちらにしろかけがえのないもので、でも今のアキにはそれが無くて、だからそれを僕が取り戻してあげないといけなくて。
「春くん?ちゃんと聞いてる?」
「……具合が、悪いんだ。何か一人で食べてて。僕はもう寝るから」
「え、ちょっと春く――」
アキを押しのけるようにして寝室に戻る。一人になりたかった。ベッドの上で身体を抱え込むように丸くなって布団を頭からすっぽりと被る。
何か心配そうな彼女の声が聞こえたけれど、意識的にそれをシャットアウトして聞こえないふりをした。アキが悪いわけじゃないのに、こんなの間違ってるとも思いながら。
彼女と二人でいるのは楽しかった。すごく居心地がよかった。
一緒にだらだらとテレビを見ながらくだらない話をして、僕が少しからかうとムキになって怒ってくる彼女が面白くて、つい調子に乗りすぎて喧嘩になった事だってあったけれど、彼女と一緒の生活にはまるで全力疾走でもした後みたいな清々しさがあった。
でも、きっともうそれは終わる。
最初から分かり切っていた事なのに、そんな生活がずっと続くなんて夢を見ていた。彼女はアキじゃない。本当の名前と、家族と、思い出があって。そこに戻るべきで。
このまま黙っていれば、ひょっとするとずっとこの家に居てくれるかもしれない。今みたいにずっとずっと、居心地の良い食卓に二人でつけていれるかもしれない……。
――僕は最低だ。こんな事を考えてしまう自分を罵って、殴りつけてやりたかった。
本当に今の生活が幸せのわけがないじゃないか。
彼女が、表面上は平気なふりをして隠していても、時々不安で押しつぶされそうになっているのを僕は気付いているはずじゃないか。
どうするべきか考えるまでもなかった。
だから、明日。僕は。